やがてnになる

仮面浪人がんばる日記

そんなナーバスなレイニーディ

はてなブログとか1145141919810年振りなので編集方法を忘れました。しかしこれは私の日記帳であり、言うなれば親愛なるキティなので気にしません。

1週間悩んで出した結論を真っ向から否定されるのは、少なくともいい思い出はないです。

心身ともにぶち壊して来た私は、すぐ「逃げる」人間らしい。既に2敗しているのに勘弁して欲しいものです。少なくともその2敗で、私は大きく成長しましたし、考え方も変わりました。逃げてなかったら、もっとつまらない人間であったか、生きる屍となっていたでしょう。

人間も動物なのですから、生存本能で逃げ出すは、非常に原始的かつシンプルな方法なのではないでしょうか!

私の逃げの危険サインが涙と身体の不調なのは自明です。わかりもしないくせに!となってしまいますね。

自主GW休暇みたいなことをしたクズ学生ですが、来週からどうするかはともかく、シス単を愛して生きていこうと思います。

再受験することに決めた話

はじめまして、ネームバリューだけはある底辺大学生生活に2ヶ月で断念しました。

本来は編入志望だったのですが、この大学にもう半年、もう1年…といることに耐えられないことに気づき、やや遅めの仮面浪人の決意となります。

自分でも変わった経歴をしている自負はあるので、身バレは承知の上で思いの丈を綴って行く所存です〜

小学生の頃、好きな先生と大嫌いな先生に出会い、憧れと反面教師で教員を志望していました。

しかし、中学生の頃にしこしこ勉強を頑張っていたら、勉強のできるガイジに目をつけられ、勉強のライバル視と「結婚するならお前がいい」と精神的苦痛を受け、彼の視野から外れたいがために勉強しなくなりました。

また、別のいざこざや悩みで心を病み、体も壊し、一瞬の不登校と2ヶ月ちょっとの保健室登校になりました。

そのいざこざに終止符を打つため死ぬ気で学校に復帰し、根性で病気を治しました。根性論嫌いですが、自律神経系の病気だったからでしょうか。

保健室登校時は「勉強しなくてもテスト良い私TUEEE!!」をしてました。その思想を大学受験まで持ち込んだのが、受験戦争の敗因の一つです。

勉強したくないながらも、なんとなく大学行こうと思い、特に苦労も心配もせず地元の自称進学校へ通います。

普段お年玉もくれない親戚たちが、地元では進学校に入学したのが嬉しいらしく、入学祝いをたくさんくれました。「公務員になりなさいよ!」の言葉が、私には「自分を養ってくれ」にしか聞こえず、なんとなく教員志望にも嫌気がさし、将来の夢がわからないまま高校生活が始まりました。

受験が嫌で、楽して推薦を狙おうとしていた私は、少し勉強をするようになります。中の上〜中位でした。

ある日、美術の先生が「美術系進学したい人相談乗るよ〜」と言っていたのが、なんとなく気になってお話しを聞くことがありました。そこで私は武蔵野美術大学、ムサビの存在を知ることになります。初めてみる世界。好きな絵を楽しそうに学ぶ美大生たち。とても輝いて見えました。

しかし、そう現実は上手くはいきません。親へ伝えると、「学費高い上に、飯を食っていけないのに何を言っているのだ」と一蹴されてしまいます。「好きなこと勉強しなさい、応援しているから」と言われて育てられて来た私には、現実が受け止めきれませんでした。泣く泣く美術の先生に相談したところ、工業系にはなるが、国公立の千葉大学首都大学東京でデザインの勉強ができることを教えていただきました。私がやりたいのは視覚デザインでしたが、ちょうどその時、苦手だった数学が得意になったのもあって志望するようになりました。具体的には、自称進学校大好き某模試で1年夏から1年冬で40前半から60前半へ、数学の偏差値が20前後上がりました。そんなの調子乗りますね。

でも、推薦のために勉強を頑張っていた私は、その二校には私の受けれる推薦、AOが存在しないことに気づいてしまいます。また、部活も忙しくなり、部活まっしぐらのまま2年生までを過ごしました。

悲劇が起きたのは2年生の夏、部活の怪我で故障してしまい、女子部長だったのに調子も下がり、部活内でのわかだまりができはじめました。男子部長やメンバーとの衝突、スランプと抱えきれなくなりながら、秋の新人戦後、今度は別の病気になってしまいました。

しかも性質が悪く、微熱が続き、検査では異常がでず、病名がわかるまで2ヶ月ほどかかってしまいました。当然部活には出れず、学校にも行って休んでを繰り返し、「サボリではないか」という不信を抱かれるようになってしまいました。

体調が良くなって復帰した後の部活は精神的に苦痛でした。よく耐えたと思います。ご察しの通り、引退後は糸がプッツリと切れ、勉強に精を出すどころではなくなってしまいました。

不運には不運が重なるものです。体調が安定しないまま受けた2年冬模試で、第一志望の首都大学東京はマークがC ドッキングでB という好成績を残してしまいます。千葉大学は化学についていけなくなったため、半ば諦めでした。みんなより学校休んだのに!と天狗になってしまいまいました。なおその後この判定は出ませんでした。良くてC、大体D〜Eをうろつきます。

模試を受ける。自己採点でメンタルが死ぬ。体調崩す。の悪循環でした。

私を待つ不運はこれでは終わりません。千葉大学AO入試が始まってしまいました。苦手な化学を受ける必要がない、ということに釣られ、受かったらいいな程度でAOの準備に明け暮れたり、体調崩して寝たりをしてました。ゴミですね。

AOはなんと一次試験の実技を通過し、面接はベタ褒め、「こいつぁすげえや!」となった私は、二次試験受かった気で、センターで使う3教科を重視して勉強しだしてしまいました。まぁ、二次試験落ちたんですけど。一次試験が苦手なモチーフでした…通ったので調子に乗っていたのです。

センター1ヶ月前にやる気を根こそぎ削がれた私は、精神を病みつつ本番を迎えることになります。

結果は惨敗でした。模試で7〜9割取っていた数1Aがまさかの4割。他教科も、模試より1、2割得点の低い悲惨な結果となります。

首都大学東京への出願を諦めることになりました。全く興味のない大学二つに出願させられます。

やっぱり自称進学校!国公立信者め!となった私は、急遽法政大学を受けました。

国公立を滑り止めにする魂胆でした。 ぼちぼち頑張って、数学8割5分〜9割取れたので、センターでの雪辱は晴らせたと思います。残念ながら、平均点爆上げの物理大爆死して滑りました。得点換算があるためなんとも言えませんが、合格最低点には手が届く素点だったと思います。 ここからは担任の無能芸が光ります。 センターは爆死したものの、滑り止めで出した悪質タックル大学のセンター利用は、去年の合格最低点を余裕を持って越え、どこのリサーチでもほぼA判のB判で、担任の「これは受かるだろう」の言葉を信じ、追加出願しませんでした。落ちてましたけど!!!!!!!友人たちも滑り止め悪質タックル大学に一般もセン利も見事タックルされまくっていたので、学校側の私立受験の甘さと、高倍率化定員厳格化の影響をモロに受けましたね。 滑り止めが消滅し、前後期も不安にまみれながら受験したためダダ滑り。親には「浪人より進学してほしい」と言われ、センター利用後期で受かった今の大学に在籍しているというわけです。 壮絶すぎて私自身が悲しくなってきました。こんなの嘘松オチの方が私にとっては幸せです。ごめんなさい、本当松です。 親には、「予備校通ってムサビ受けてみたら?やりたいんでしょ?」と言われて、憎くて仕方なかったです。2年前に言って欲しかった!その言葉を! ムサビへの未練がタラタラで、浪人するならムサビでしか頑張れないとわかってた私は、全然志望とは違う今の大学で、やりたいこと見つけよう!と意気込んで入学しました。無理だったんですけども。 あれ、じゃあなんでいま仮面始めようとしてるんだ?と言いますと、きっかけは主に4つです。 ・2年次編入するつもりの所が今年募集なし。 ・遠距離中の恋人の家に行き、キラキラしてる大学生を見て現状が嫌になった。 ・同じような落ち方をした友人も仮面をする。 ・地学という学問に興味が持てた。 大学生になってから地学という学問に興味が湧き、デザイン以外で初めて、勉強してみたいと思いました。 また、教師の夢もなんやかんや再燃しています。 多分純浪ではこの気づきはなかったし、今の大学から離れるんだ!と自分に鞭打って勉強できるのでは?と思っています。 現在文系学科にいますが、授業で数学を選択して、数学の楽しさに震えたことも事実です。線形代数すこです。どうやら腐っても理系のようでした。 メンタル面でも、去年より勝因があります。 一つめは、遠距離できないと言われた恋人と一度別れ、もう一度遠距離で付き合ったこと。 二つめは、低用量ピルの服用です。当方まんさんなのですが、生理痛はすこぶる重く、受験勉強の阻害しまくりでした。生理前から具合が悪くなるタイプで、月で元気なのは1週間あるかないかレベルです。 今このブログを書いてる現在、そのせいもあり、発熱と精神を病むで、こんな身バレ上等のブログを書き、自主休講しまくりました。 私はやります!!!!!!!! こんな感じでメンヘラ仮面生の長文になります。誰も見てくれなくて結構です。自己満足なので! がんばるぞ〜〜